手術しない変形性股関節症と親の介護ブログ

親の介護体験や 変形性股関節症 保存療法への取り組みに関する記録

座っていて突然意識を失った母 迷走神経反射

認知症になった母の介護5年目 2014年3月11日

 

この日、母のことでとてもビックリさせられることが起きました。

 

この頃の母はまだ、短時間であればひとりにしておいても、そんなに危険なことはなかったので、私は洗濯物を干すためにベランダに出ていて、しばらく目を離していました。

 

 

いつものように洗濯物を干し終え、戻ってきてみると、母は椅子に座ってはいたものの、体勢は崩れ目はうつろで、グッタリしていました。

 

私はただただ驚いて、大声で呼びかけましたが反応がありません!

 

 

急いで兄も呼んで、ふたりで母の体をさすったりしながら何度も呼びかけましたが、しばらくは反応もなく、口からはよだれを流し始め、目からは涙も出ていました!

 

こ、、こんなことは初めてです!

 

母はこのまま、死んでしまうのかもしれない!

 

母の死というものを、強烈に予感した初めての体験でした。

 

 

救急車を呼ぼう!

 

そう思っていた矢先に、母は徐々に意識を取り戻しはじめました。

 

その後も、ヒヤヒヤしながら母を見守っていましたが、特に異変は感じられず、いつもの母に戻っていたのです。

 

 

一体、なんだったんだろう??

 

このときは結局、わからないままで終わりました。

 

でも、この4年後に、同じ現象を2回も起こし、2回とも救急搬送されたことにより、最終的に原因は「迷走神経反射」によるものだったとわかりました。

 

血管迷走神経反射というのは、極度の緊張やストレス、不安感などから起こる、血圧や脈拍低下の現象です。

 

血圧が低下し一時的に脳に血液が行き渡らなくなってしまうため、意識を失ってしまうこともあるようです。

 

なので、迷走神経反射による失神が原因であれば、すぐに身体を横に倒して、脳に血液を行き渡らせるようにしてあげると、回復は早いようです。

 

母はこのとき、失神するほどのなんらかの緊張やストレス、不安を感じていたに違いありません。

 

私はこの4年後にその原因を知ってから、一回目に起こしたこの日のことを日記も参考にして、再び考えてみました。

 

この頃の母は、まだまだ私と口喧嘩できる思考レベルはあったので、喧嘩でもしてたかな? とは考えましたが、特に喧嘩したこともなかったようです。

 

それに、喧嘩が原因であれば、喧嘩中に興奮して失神を起こすのではないかな、と。

 

そこで、私なりに出した答えは、

 

母は誰もいない部屋でひとり静かに座っている間に、いろいろなことがわからなくなったり、できなくなっている自分に対し、言いようのない不安や恐怖といった思いが、抑えきれないほどに湧き出てきちゃったんじゃないかな、と。

 

この頃の母は、認知症という言葉にも馴染みがなく、自分がそうであることにも気づいていません。

 

それでも時々、

 

「最近、なんか、頭おかしくなってきちゃったみたい。。。」

 

と、母は私に訴えるようでもあり、独り言のようでもある感じで、時折、小さく口にしていたことは思い出します。

 

 

 

いったい、どうしちゃったんだろう私。。。

 

 

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誰か助けて! 

 

 

そんな言いようのない抱えきれない不安と恐怖に襲われて、母は意識を失ってしまったような気がします。

 

認知症の人には、時には気を失うほどのレベルの、強烈な不安や恐怖があるのだと思います。

 

たぶん、深く物事を考えられなくっている今の母にの中にも、消しようのない不安感が時折顔を出したりしているような気がします。

 

それを消せるのは、やはり他者から与えられる安心感なのかもしれません。

 

この当時の私には、そんな考えは全く浮かびませんでした。

 

  


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階段は片足ずつしか上がれなかった 2015年1月~3月

変形性股関節症 発症から6年目(2015年1月~3月)の記録です。

 

1/3  椅子に座ってできる足の運動を始めました。椅子に座ってできる運動は、股関節が痛くてもできるものがけっこうあります。

 

1/8  脚の運動の効果か、階段の手すりにつかまってなら、左足からも上がれるようになっています。

 

そうでした! この頃は、手すりにつかまった状態でも、先に痛みの出ない右足を上げて、次に左足を横に揃えて上げるしかできなくなっていたのです。

 

つまり、一段ずつ両足を揃えてからでないと、次の段に進めないということです。

 

この当時は、痛い方の左足から階段を上がろうとしてもまったく力が入らず、無理に体重をかけたりすると、グキッとした激痛が走りました。

 

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ଘ(੭*ˊᵕˋ)੭ 2021年現在は、手すりにはつかまれば、左足からも上がれます。

 

 

なぜ上がれるようになったのかは、私にもよくわかりません。

 

なぜなら、脚のトレーニングや矯正を、その後もそんなに真面目に続けたわけではないからです。

 

 

 

2015年の1月、2月は、無理なくできる簡単な脚の運動を続けていたからか、脚の力がついてきたことを実感しています。

 

3月 暖かくなってくると、冬の間に硬直していた筋肉が緩むせいか、関節がガクガクして不安定な感じになり、それに伴い痛みが出てきました。

 

季節の変わり目は、とりあえず安定していた筋肉の状態に急激な変化が起こるので、毎回嫌な痛みを感じます。

 

3/17  この時期は、整骨院に行ってきた後も、やはり硬直した筋肉が緩み、関節がガクガクして不安定な感じになり、冬には感じなかった嫌な痛みが出ています。

 

3/18  キツイ靴を履いているわけでもないのに、この頃は、かなり顕著に外反母趾の傾向が出始めています。足裏への体重のかけ方に問題があるのだと思います。爪の変形、指の変形も一部に認められました。

 

ଘ(੭*ˊᵕˋ)੭ 2021年現在は、外反母趾をはじめとする足の問題はかなり解消されました。

 

足指強化のためのちょっとしたトレーニングや矯正、ウオノメや爪の変形に対するフットケアを忘れずに続けてきたおかげでしょうか。

 

長年かけてだいぶ良い方向に向かっています。

 

 

  

2015年と比べて、2021年現在の方が、脚の力も増し、痛みも軽減し、足のトラブルも減っている、という結果になっています。

 

今回改めて確認出来て、私自身、ちょっとした自信につながりました。

 

正直言って、治すための努力を一生懸命続けけてきた! なんてことは言えません。

 

でも、なんとかしなきゃ! という気持ちと、自分の身体の声を聞くこと、脚にとっていいと思えることのなにか、は、そんなに一生懸命ではなかったけれど、続けてはいたかな。

 

 

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ひとりでお風呂に入れるのも限界か 2014年

認知症になった母の介護5年目 (2014年1月~2月)

 

1/2   年明け早々、またまた母はトイレを詰まらせました。

 

大量のトイレットペーパー、そして時にはペーパーの芯まで流し、詰まってしまっても何度も何度も水を流そうとするので、次第に溢れ床まで水浸しに。。。

 

1/6  早朝のトイレで、下着もパジャマも濡らしてしまいました。

 

1/14   この日もまた、トイレを詰まらせトイレットペーパーが溶けた水を床に溢れさせ、その後の処理に疲れ果てました。

 

 

1/18  母がお風呂から出た後の浴槽の中を見ると、トイレットペーパーのカスや髪の毛などがたくさん浮いていました。たぶん、この頃はもう自分で身体を洗うことはできなくなっていたのでしょう。

 

2/22  母がお風呂に入っている時に大きな物音がしたので駆けつけると、浴槽から出たところで転倒していました。幸い、大きなケガはなかったのですが、母はだいぶ気持ちが動転しているようでした。

 

 

 

2/23  トイレから母が出た後に、見たことのないゼリー状のものが床に飛び散っていてビックリ!

 

結局その正体は、リハビリパンツ(紙おむつ)の中に入っている吸水材で、水分を吸収するとゼリー状に変化するものでした。

 

リハビリパンツの構造上、そう簡単には中のゼリーなんて出せるようにはなっていないのに、母はなにを思ってか、かなり力を入れて破ってしまったようです。

 

これもまた、後の処理が大変で、拭いても拭いても床がツルツル滑って大変でした。。

 

その他にもこの日は、意味不明なことを言い出したり、私のことが分からなくなっている瞬間もあったり、夜中にトイレに起きる時も介助しなければ立ち上がれなくなったりと、一気に認知症状が進んでしまったかのような様子を示していました。

 

前日、浴室で転倒したことが影響していたようです。

その後も転んだりするなど、大きなショックや不安を感じる体験をすると、認知症状が一気に進んだかのような様子を、一時的に見せることが多々ありました。

 

 

2/25  この頃母まだ食欲は普通にあったので、食事は十分に用意していました。

 

それなのに、キッチンにある缶を開けたり冷蔵庫を何度も開いて、食べ物を物色して回ります。

 

母が食べたいパンやお菓子といった甘い物を探しているのです。

 

おやつにはそれなりに、母の好きな甘い物を用意しますが、それだけでは満足できなかったようです。その頃の母は、ただ甘い物だけ食べておなか一杯になれば良かったのです。

 

 

2/27  この日もまた、トイレに行って下着やパジャマを濡らしてしまいました。リハビリパンツを使っているにも関わらず、トイレに行った際には失敗してしまうことが多発するようになってきました。

 

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たった一日だけ過去に戻れるなら。。

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

 

もしも一日だけ過去のどこかに戻してもらえる魔法があるとしたら、私は9歳の頃の、ごくごく平凡な日に戻してもらいたいと考えています。

 

時代的には1971年(昭和46年)です。

 

1971年 私は小学校2年~3年生でした。

 

その頃うちは、父がサラリーマンとして働き、母は専業主婦、兄は私とは7学年離れていたので、中3~高1でした。

 

両親と子供二人という、ごくごく平凡な4人家族でした。

 

私は毎日元気に小学校に通い、帰宅してからは友達と遊ぶか、家で本を読んだり母と過ごしていました。

 

習い事はまったくしていませんでした。

 

私自身なにかを習いたい気持ちはなかったし、親も特に何か習わせようと勧めることもありませんでした。

 

この当時であっても、何も習い事をしていない子供は、珍しかったように思います。

 

母の口から

「勉強しなさい!」

という言葉を聞いたことは、一度もありません。

 

やりたいことを、頭ごなしに禁止されたようなこともなかったと思います。

 

母は貧しい家に育ち、青春時代には戦争を経験し、苦労の多い人生だったと語ることが多く、「あなた達は好きなように生きなさい」と、ことあるごとに私達兄妹にはよく言っていました。

 

これもまた、珍しいことなのかもしれません。

 

 

1971年当時。夕方になると、母と一緒に買い物に行ったことが、今となっては一番の思い出となっています。

 

家の近くに個人商店があり、そこには母と二人で歩いて行きました。

 

帰りにはいつも、そこで買ってもらったアイスなど食べながら帰った思い出があります。

 

父が帰宅している時には、父の車で少し遠くのショッピングセンターに行きました。

 

その時には父もいたはずなのですが、なぜか私の記憶の中には、買い物先での父との思い出はほとんどありません(・_・;)

 

当時よく行っていたショッピングセンターは、広い敷地内に食品スーパー以外にも、衣料品店おもちゃ屋さん、手芸屋さんなどたくさんの店舗が入っていました。

 

さらに、ホットドッグやソフトクリームなどの移動販売車なども出店していて、そこでも必ずなにか買ってもらい、夕食前だというのに、いつも食べながら帰った思い出があります。

 

母との思い出は、数限りなくあるけれど、なぜか真っ先に思い出すのが、9歳頃に母と一緒に夕食の買い物に行ったことです。

 

私は、10歳からずっと日記を書いているので、10歳からの出来事はわりと鮮明に思い出すことができるのですが、それに比べ9歳以前からの記憶は曖昧になっていきます。

 

さらに10歳頃からは少しずつ自我が芽生えてくるからか、母親を求める気持ちもそれまでとは違い、友達と過ごす時間が少しずつ増えていったように思います。

 

10歳頃からは、これでも徐々に親離れしていったのでしょうね。

 

9歳はちょうどその最後の年代だったからか、その頃の自分と母との日常が、切なくも懐かしい思い出となって、心に焼き付いているのかもしれません。

 

私にとって母はそのものです。世の中には毒親という言葉もありますが、私にとって母は神親です。

 

宇宙で一番好きな存在。この想いは子供の頃から、ずっと変わりません。

 

こんなふうに母に対する想いを熱く語ってしまうと、親から十分に愛されなかった人には、不快な思いを抱かせてしまうかもしれない、という不安も正直言ってあります。

 

 

人の人生は、トータルではバランスが取れているのではないかな。

 

母親からの愛情部分では私は有り余るほどの恵みを受けましたが、両親の介護ではかなりの苦労をしましたし、自分自身、変形性股関節症により歩行が困難になるなどの負も背負っています。

 

たぶん、他にも一般の水準から比較すれば、恵まれていない点は数々ある気がします。

 

でも私には、母からもらった愛情貯金がたっぷりあるので、この先自分の身にどんな困難が起きたとしても、この蓄えられた力を使ってなんとかできるような、そんな楽観性も養われています。

 

 

2021年夏、母は95歳。認知症、要介護4。介護施設に入所して1年と10か月。

コロナ禍のため、直接会うことができなくなり、1年と6か月。

母の寿命が尽きないうちに、一刻も早く母に直接会って、触れたい。

 

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1971年はこんな年でした👇 

 

1971年(昭和46年)出来事

1971年(昭和46年)流行ファッション・髪型

  • ■アンノン族(雑誌アンアンとノンノから)
  • ■ボウリングシャツ、ボウリングシューズ流行
  • アメリカンカジュアル全盛
  • ■ホットパンツ登場
  • ジーンズブーム
  • ■ポロシャツブーム
  • ■ミニからパンタロン
  • ■アーミールック
  • ■パッチワークファッション
  • ■プリントシャツ流行
  • ■スマイルバッジ流行

1971年(昭和46年)新商品・ヒット商品

1971年(昭和46年)新食品・ヒット食品

1971年(昭和46年)流行語

  • ■アンノン族 (雑誌「anan」や「non-no」を小脇にかかえて旅行する女の子たち)
  • ■脱サラ (脱サラリーマンの略で、会社をやめ、独力で事業を興すこと)
  • ■ニアミス(衝突や接触するおそれがあるくらい飛行機同士が異常接近すること)
  • ■ピース、ピース (井上順がテレビの司会でVサインを作りながら言ったの流行)
  • ■ヘンシーン (子供たちが仮面ライダー真似をし「変身!」とポーズをとるのが流行)
  • ■ホットパンツ (この春夏コレクションで話題になったショートパンツ)

1971年(昭和46年)ベストセラー

 

1971年(昭和46年)ヒット曲

順位 曲名 歌手名 売上枚数
1位 わたしの城下町 小柳ルミ子 110.3万
2位 知床旅情 加藤登紀子 102.8万
3位 また逢う日まで 尾崎紀世彦 92.8万
4位 傷だらけの人生 鶴田浩二 77.9万
5位 ナオミの夢 ヘドバとダビデ 66.6万
6位 よこはま・たそがれ 五木ひろし 60.6万
7位 花嫁 はしだのりひことクライマックス 60.5万
8位 雨のバラード 湯原昌幸 55.5万
9位 望郷 森進一 54.5万
10位 さらば恋人 堺 正章 52.9万

日本レコード大賞また逢う日まで尾崎紀世彦

■日本有線大賞:傷だらけの人生(鶴田浩二

■年間アルバム1位この胸のときめきをエルヴィス・プレスリー

1971年(昭和46年)邦画ランキング

1971年(昭和46年)洋画ランキング

1971年(昭和46年)名作アニメ

 
 

年代流行 (nendai-ryuukou.com)  引用元 

 

 


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しゃがみ込んだら立ち上がれない 2014年後半

変形性股関節症発症から5年目(2014年後半)の記録

 

この年にはもう、電車、バス、徒歩などの手段を使って、片道一時間程度の移動距離が限界になってきています。

 

今現在もたぶん、遠出するならこの位が限界だと思います。

 

 

この年の7月 キッチンでしゃがみ込んで低い位置にあるものを整理していたら、立ち上がれなくなった、と日記には記されています。

 

しゃがみ込んでいる時間が短時間であれば、近くにある椅子やテーブルなどに手を付いて立ち上がれたはずなのですが、この時は少しだけしゃがみ込んでいた時間が長かったようです。

 

手近にある物につかまっても、脚に力が入らず立ち上がれません。

 

仕方なく、思い切って尻もちをついてしまってから、両足を伸ばし、両手を床についてなんとか立ち上がることができました。

 

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これは今現在でも同じですが、何かにつかまるか手を付いていれば、しゃがむという動作は、股関節の痛みもなくできます。

 

ただ、その状態から立ち上がるためには、周囲に安定してつかまるものがあることと、ある程度の広いスペースが必要となります。

 

とりあえずつかまるものがあっても、狭いスペースにはまりこんだ状態で立ち上がれなくなった場合は、誰かに引き上げてもらうしかなくなります。

 

しゃがんで立ちあがるという動作より、正座して立ち上がるという動作の方が、まだなんとかなることが多いです。

 

 

キッチンも、収納スペースとしては十分にあると思いますが、低い位置の奥や、踏み台を使わないと取れないような場所には、物を置いても取れない(取りたくない)気がして、とりあえず手の届きやすい場所に物が密集しやすくなっています。

 

それはキッチンに限らず、ほとんどの部屋の状態も同じです。

 

うちは今まで4人家族だったのが2人になってしまい、今までと比べれば、住居スペースも収納スペースもたっぷり使えます。

 

私自身はシンプルライフ志向なので、うちは物の数もかなり少ない方だと思います。

 

でも、自分自身の動ける範囲が限定されているので、今あるスペースを十分に使いこなせないことは、とても残念です。

 

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痛い方の股関節とは逆の右足裏には、相変わらずウオノメが三か所と、次第に足爪の変形も見られるようになってきました。

 

痛い方の左をかばって歩くので、右足ばかりに重みがかかってしまうのでしょう。

 

(2021年現在は右足裏のウオノメは二か所に減っています。足爪の変形は足指のトレーニングにより、たいぶ良くなっています)

 

  


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リハビリパンツデビューの年 2013年介護4年目

認知症になった母の介護4年目 2013年11月~12月

 

この年の11月から、母は初めてリハビリパンツを使い始めました。

 

リハビリパンツは紙おむつではありますが、パンツタイプになっていて、まだトイレに行ってできる人が主に使うものです。

 

私がリハビリパンツの存在を知ったのは、この前の年2012年に父が腹部動脈瘤の手術をした際、一時的に必要になった時からです。

 

手術後に病院側から、

 

「リハビリパンツも買って用意しておいて下さい」と言われ、

 

リハビリパンツってなんだろ?と思い、売店に行って聞いてみて、

 

なるほどこれか!

 

と、知りましたが、吸収量にもいろいろ差があり、サイズも幅広く用意されていて一瞬戸惑いました。

 

リハビリパンツを知っている人は、リハパンで通じますね。

 

母はトイレでの失敗が多くなり、下着を汚すことも多くなってきました。

 

それを自分でなんとかしようと、下着の中に大量のトイレットペーパーなどを当てて対処しようとしていました。

 

リハパンはもっと早くから使ってもらいたかったのですが、私としてもなかなか言い出す勇気が持てなかったのです。

 

リハビリパンツと言えば聞こえはいいですが、紙おむつであることはわかると思うので、きっと嫌がるだろうな、と思って。

 

でも、もう限界だなと思い勧めてみたら、意外と抵抗感も示さず使ってくれました。

 

母も、失禁の不快感をかなり感じていたからでしょうか。意外でした。

 

リハパンを使い始めてからも、母は今までのつもりで大量のトイレットペーパーを入れ込んでしまい、後の処理は大変になるし、買っても買ってもトイレットペーパーはすぐに失くなってしまうしで、苦労は絶えませんでした。

 

相変わらず、お風呂に入ってもらうのも一苦労。

なんとか入ってもらえたとしても、全身きれいに洗えているとは思えず、入浴介助を頼んだ方がいいのかと考え始めた頃でした。

 

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徐々に母も、人の手を借りることに抵抗感がなくなってきたのか、以前より私を頼るようにもなってきました。

 

うちのお風呂はかなり狭いですが、私が脚が悪くなければ、なんとか洗ってあげることはできたと思うのです。

 

この頃の母のお風呂問題は、私の脚が悪くさえなければ、かなり解消されていたように思います。

 

 

通院に関しては、母は内科と整形外科に毎月、受診していました。

 

内科からは認知症コレステロールの薬が出され、整形外科からは骨粗しょう症の薬が出てました。

 

待合室で母とふたりで待たされている間、私はいつも緊張感でいっぱいでした。

 

それは、母が気になったものに対して、突然変なことを言い出すからです。

 

一番ハラハラさせられるのが、待合室にいる患者さんを見て、その人の容姿についての、言っては失礼に当たることを、平然と口にしてしまうことです。

 

あるいは、

 

「ほらほら。あの人がこっち見てるよ!」とか。

 

気になる人が目につくと、私にも早く見なさいとばかりに、しつこく言い続けてしまうことには、ほとほと参ってしまいました。 

 

 


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家族揃って過ごせた最後の日

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

 

今回はテーマ投稿に合わせた内容で書かせていただきます。

 

2019年9月26日木曜日 

 

その日は生まれてからずっと一緒に暮らしてきた、両親と兄そして私という、家族4人での暮らしが最後になる日でした。

 

認知症で要介護4となった母は、翌日から介護施設の入所が決まっていました。

 

父は95歳、母は93歳、兄は63歳、私は57歳でした。

 

10年近く、兄と力を合わせ在宅での介護を頑張りましたが、とっくに限界を超えていました。

 

入所までにかなり待たされ、やっと順番が回ってきたのですが、ほっとする気持ちなどまったくなく、ギリギリまで母を手放したくない想いに駆られていました。

 

母の入所が決まってから、猛スピードで老衰へと向かってしまった父は、母が家を去ってから10日後に救急搬送され入院、そのたった1か月半後には亡くなってしまいました。

 

母がいなくなってからの父の衰弱ぶりは驚くほどで、結局、母とほとんど時期を同じくして、家から去ってしまったことになります。

 

 

家族4人で暮らせた最後の日。

 

父は、2回目のデイサービスに行きました。

 

本来なら、家にいて母と一緒にいられる時間を持とうかと思いましたが、デイサービスに行けばお風呂にも入れてもらえるし、家にいるより手厚く面倒も見てもらえると思い、行ってもらいました。

 

この年の夏頃から父は体調が優れず、9月からデイサービスを利用することにしました。

 

でも、結局、父がデイサービスに通えたのも、この日が最後になりました。

 

父が通えたのは たった二回です。

 

母は5年以上も通ったところです。

 

母にとってはデイサービス最後の日に、父も初めて一緒に行ったのです。

 

 

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たった一回でも、ふたり揃って通うことができ、記念に写真も撮ってもらえて、本当に絶妙で奇跡的なタイミングでした。

 

 

 

話を戻して、家族で過ごせた最後の日。

 

私と兄はなるべく母の傍にいるようにしました。

 

特別なことはなにもしなくて、諸々の家事や母のトイレ介助等の介護、施設入所に必要な持ち物を揃えたりと、いつもの忙しい日常がそこにはありました。

 

夕方、5時過ぎには、かなり疲れた様子で父もデイサービスから帰ってきました。

 

家族揃って最後の食事となる夕食には、ネットスーパーで届けてもらったお寿司やケーキなどを出しました。

 

介護がハードになってからは、ネットスーパーは頻繁に利用していました。

 

出来合いの総菜やお弁当という食卓が、いつもの日常になっていました。

 

 

認知症の母は、自分が置かれている状況はわからないまま、食欲はあったのでよく食べてくれました。

 

父は、言葉にはしなかったものの、母がいなくなる悲しみでいっぱいだったのかもしれません。

 

体調の悪さもあって、握り寿司を3つだけ、その日はやっと口に運ぶのが精一杯でした。

 

私はといえば、当時の日記を見ると、「忙しさと疲れとで、母がいなくなってしまう実感は全くない」と記していました。

 

この頃は、常に戦場にいるかのような気の抜けない毎日がいつもの日常であり、母と過ごせる残り少ない時間をじっくり大事に味わう、といった心の余裕は、ほとんどありませんでした。

 

それでも、悲しみや寂しさや焦りのような、言いようのない感情が、胸の奥深くから吐き気を伴うほどに、強く激しく渦巻いていた感覚は思い出せます。

 

 

子供の頃からずっと実家で暮らしてきた兄と私には、家族4人での暮らしが当たり前になっていました。

 

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何気ないいつもの日常には、父も母も必ずいました。

 

その時代時代で、いつもの日常風景やそれぞれの状況は多少変化しているものの、そこには必ず、父も母もいました。

 

両親ともに介護がハードになった後半2年間くらいの間は、常に気が抜けない戦場のような生活が、いつのまにか当たり前の日常であり、何気ない日常になっていました。

 

 

 

あの頃の何気ない日常は、今はもうありません。

 

何気ない日常なんて、取り立ててなんの思い入れもなく、ずっと続くもののような気がしていました。

 

だけど、いつの間にか消えてしまったあの頃の何気ない日常に、今はものすごい価値を付け、一日一日、一瞬一瞬が特別なものだったと思い知りました。

 

 

それは、今日、今この一瞬もいつかはそんな価値あるときになるに違いないものの、今日もまた私は、当たり前の日常として、流されるようにときを過ごしています。

 

もしも、人生があと一日しか残されてなければ、最後の一日をどう過ごしたいか?

 

今の私なら、特別なことなどなにもせず、いつもの日常、当たり前の日常を、心ゆくまでじっくりゆっくり味わって、人生を閉じられればいいかなと思います。

 

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