今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」
秋の空気が漂いだすと、ちょうど昨年の今頃のことが次々よみがえってきて、言葉にならない感情が沸き立ち、我を忘れて茫然してしまうことが増えてきました。
昨年秋の終わりに訪れた 父の他界という大きな別れの前に、同じく昨年秋のはじめには、母の介護施設入所という大きな別れがありました。
母親が介護施設に入所できるという連絡を受けてから、家族で過ごせる時間はたった2週間ほどしか残されていませんでした。
その残された数少ない日々を、これでデイサービスに送り出すのは最後、これで一緒に食事をするのは最後、これでトイレ介助をしてあげるのは最後、これで紙おむつの交換は最後、、、と、どんなに些細なことにも最後であることをかみしめながら ときには大泣きしながら行っていたことを思い出します。
入所連絡を受けてから入所するまでの間、一番気持ちが動揺したのは、今思うと連絡を受けた直後でした。
入所日当日は、お迎えの車が来るまでの時間に あれこれしたくさせるのが精いっぱいで、悲しむ暇などなかったのが現実です。
そして母を送り出してからも、具合が悪くなっていた父の世話をしなければならず、ゆっくり母のことを想う余裕もなかったのです。
悲しむという感情は、ある程度気持ちの余裕がなければ きちんと実感することができないということに気づきました。
でも、きちんと実感してもらえない悲しみの感情は、私の中にくすぶって蓄積され、いつか受け入れられる時を待っていたのだと思います。
あの頃から比べれば、今はだいぶ気持ちのゆとりはあります。留まっていた悲しみの感情は、今になって小出しに噴火し続けているような実感があるのです。
私の中にくすぶっている悲しみのマグマはかなり大きくて、まだまだ今の私には手に負えません。だけどいつの日か、ほどよい悲しみを残したまま、父や母と過ごした日々の思い出に浸れるときは来るのだと思います。
でもそれがいつかは、今は見当もつかないほど悲しみのマグマは大きい気がします。
このところ、父と母が夢の中によく出てきます。
母はまだ生きていますが、今現在はコロナで直接面会はできず、触れることができないことがとても辛いです。
でも、夢の中では、いつも母に触れることができるのです。
たとえ夢の中だけであったとしても、母に触れる喜びを感じることができて幸せです。
母はまだ生きているのに、触れることができない日々がこれだけ続いていくと、母が生きているという実感はどんどん薄れ、このまま一生の別れになるような気がして怖いです。
母の寿命が尽きないうちに、母にたくさん触れて、母がこの世に生きている実感を 全身全霊で存分に感じてみたいというのが、いま私の一番の願いです。