手術しない変形性股関節症と親の介護ブログ

親の介護体験や 変形性股関節症 保存療法への取り組みに関する記録

認知症になりやすい生き方ってあるのかな

認知症になる人とならない人の違いってなんなんだろう?

私はこのことを、認知症だった母のことを思い出しながら、時々考えます。

 

認知症のリスクを高める要因は、食生活や運動習慣、そして遺伝的な要素というのは以前から言われていたことでもあり、たしかにそれは否定できないだろうな、とは思います。

 

ただ私は、それ以外にもその人のものの考え方とか、心の持ち方とか、一見しては気づきにくいその人の生き方そのものにこそ、リスク要因がかなりあるような気もしてる。

 

「悪いけど。。少し休ませてもらいます」

これは認知症がかなり進行し要介護4だった頃の母の寝言です。

 

認知症になる前の母は、自己犠牲的とも言えるほど、家族のために尽くしてくれる人でした。

 

専業主婦だったので家事は手抜きすることなく、床掃除も昔ながらの雑巾がけをずっと続け、食事の時も母はササッと切り上げ、後片付けや家族の給仕に休むことなく動く回っていたことを思い出します。

 

そんな母ですが、こんなこともよく言っていました。

「毎日毎日、家族の世話で嫌になっちゃうよ!たまには誰かの世話になって、ラクしてみたいよ」

 

それでも、父も兄も私もそれぞれ自分のやることを優先し、母の世話になりながら、お気楽に暮らしていた感じなのです。

 

ま。父は家族の為に仕事も真面目にしていた人なので、お気楽に暮らしていたとは言えないものの、無理してまで頑張ろうとはせず、マイペースに生きてた感じはしましたね。

 

テレビなどで認知症の家族を介護している番組を見ると、認知症になって介護される側は家族を世話するために生きてきた人が多く、介護する側は、親のおかげで自分の好きなように人生を生きてきた娘や息子、といったパターンが意外と多い気がする。

 

 

そして、そういった娘や息子は、独身で子育ての経験もなく、それまでの人生「誰かのお世話をする」という経験値が乏しい人が多いような気が。。

 

もちろん、それ以外のパターンもたくさんあって、たまたま私が自分の家族と似たようなパターンばかりに注目しているのかもしれないけど。

 

自己犠牲的ともいえる感じで人のお世話を散々してきた母は、認知症になることによって、ようやく人からお世話してもらえる立場になれた。

 

自分中心でしか生きられなかった私は、介護を通して初めて人の世話をするという課題がクリアでき、人として成長できたような感覚はある。

 

人それぞの生き方の不足している部分を補いバランスを取るために、病気とか障害とか介護とか。

 

そういった一見悪いことであっても、身の上に起こることが、あるんじゃないかなあ。

 

なので、この課題をクリアすればいいことあるぞ!と思って取り組んでみた方が、ストレスは少ない気がする。

 

誰もが納得するような、認知症になりやすい生き方というのがあるのかどうかはわからないけれど、なったらなったで、受け入れる覚悟は一般の人よりもできてるかもしれない。

 

それは認知症の母の様子をずっと見てきたからだと思う。

認知症の人や認知症そのものに対しても、恐怖心や不安感や抵抗感は だいぶなくなった気がするかな。

 


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ちっぽけな父の遺品も捨てられない

2019年11月に父が亡くなって、4年が経とうとしています。

あれから11月が巡ってくるたび、いつもとは違った特別な感情で 父のことを思い出す時間が増えてきます。

父は1ヶ月半ほど入院した後に 病院で亡くなりました。

家に居られた最後の1ヶ月間ほどは たくさんの薬を苦しそうに飲んでいた姿が忘れられません。

普段は朝と晩に飲む薬を小分けにセットしておき、父の食事が終わったら私がその都度出してあげていました。

父の薬は徐々に薬が増えていき、不安でした。

初期の頃は、血圧の薬が一粒だけだったのに。。

父が家に飲み残した大量の薬を、4年経った今でもまだ捨てられずに、あの当時置いておいた棚の所に、置いてあります。

徐々に食事も摂れなくなって、それでも薬だけは無理して飲んでいた父。

辛く苦しかったのはわかっていたのに、父には我慢させすぎちゃった。

 

最終的には救急搬送。

そして、再び家に戻ることはなかった父。

2019年11月23日 夜 病院で父は亡くなりました。

95歳 死因は心不全の急性増悪となっていましたが、老衰ですね。

見事に生き切ったといえる人生であり、最期でした。

 

入院先のベッドサイドに置いておいた時計。

これは亡くなる前の年に父が入院した際に、文字盤がみやすい時計を置きたがったので、とりあえず100均で見つけて買ってきたものだったと思う。

父のベッドサイドに置かれた唯一の私物。

亡くなった瞬間も時計は止まることなく時を刻み、私が見届けられなかった父の最期を見届けてくれていたのかと思うと、安くてちっぽけな時計だけれど、この先もずっと手放すなんてことはできないだろう。

 

父の遺品すべて残してあるわけではないけれど、亡くなる最後の頃に目にしていたものほど、どんなにちっぽけなものでも捨てられない。

父の衣類でまだ着られるものは、兄に着てもらうようにしている。

でも、兄と父とではサイズが違うので、着られないものの方が多かったりする。

よくよく考えると、兄に着られないのは私が着てもいいかも、と気づいた。

 

こんな感じのシャツとか、自分では選ばない色だけど、着てみると悪くないかも。

 

亡くなった母の衣類も使えるものは使おうとしているので、多少自分の趣味じゃなくても 普段使いにはどんどん着ていこうかな と思っているのです。

 


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変形性股関節症になった頃の多大な不安感

私は、2009年47歳頃から股関節の違和感や痛みが強く出始め、変形性股関節症であることが判明しました。

 

その当時の私は、多大なる不安感と将来への絶望感を覚えました。

 

というのも、変形性股関節症は治せるものではなく、そのまま放置しておくと進行していく障害だという情報を知ったからです。

 

手術 (人工股関節置換術)という選択肢もあるようでしたが、数々のリスクも懸念され、それ以上に私は、自分の身体を傷つけることへの抵抗感が人一倍強いので、手術は絶対にしたくないと思いました。

 

命に関わるようなことでなければ、自分の身体は絶対に傷つけたくない!

 

そんな信念のような強い思いが私にはあるのです。

 

なので私は若い頃から、美容整形はもちろん、ピアスの穴だってとんでもない!という考えでした。

 

もちろん、他人がそうすることに対しては、とやかく言うつもりは全くないです。

 

私に限っていうならば 手術という選択肢は、あり得ない。

 

いろいろ調べて、散々考えて、手術で今後の股関節人生が安泰になるとは到底思えなかった。(※他の人もそうだということではありません)

 

でも、手術しないで、自分のこの変形した股関節で、この先ずっと自立して生活できるのだろうか。

 

 

いずれにしても、変形性股関節症との縁が結ばれてしまった以上、老後への不安はさらに大きなものになっていきました。

 

私はきっと まだそんなに高齢にならないうちに、歩けなくなって車椅子生活になって、晩年は寝たきりになってしまうかもしれない。

 

そんな不安なイメージに脅されていた時期もありました。

 

でも、自分でこまめにあれこれ工夫し身体の調整をしていくうちに、股関節の状態は確実に良い方向に向かっているということが実感できています。

 

私はかなりひどかった末期の変形でしたが、14年経った今でも進行はしていないどころか、着々と自力で回復に向かっています。

 

するといつの間にか、老後は車椅子になったり寝たきりになってしまうような将来像ではなく、90代後半になっても自分の足でしっかり歩ける自分のイメージが湧いてくるようになり、そのイメージに引っ張られてさらに力も湧いてきています。

 

変形性股関節症であるというだけでは、絶望する必要も不安にさいなまれる必要もないんだ。ということがわかった。

 

その後、自分がどのような選択をしどのように行動していくかで、その後の人生は決まっていくような気が 今はしています。

 


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親の死を受け入れるということ

2019年に父は95歳で他界、2022年に母は96歳で他界。両親を亡くした今、親の死を受け入れるということについて、思ったことを綴ってみます。

 

子供時代の私は、親が死ぬなんてことは普段はほとんど考えたことはなかったけれど、いつか親が死んでしまったら。。ということをふと想像し、悲しくなって泣いたことは多々あるな。

 

よくよく考えてみると、子供時代だけじゃなく、介護をする前の40代位までは、親の死なんてとても受け入れられないという、子供時代と同じような感覚でいたような気がします。

 

親の死、というと、両親という意味合いに捉えられるかもしれないけれど、特に母親の方です。

 

父が亡くなったら、と想像して泣いたことは、なぜかないような気がする😅

 

介護を経験する前までの私は、親の死なんて考えられないし、考えたくもないし、考えただけで悲しくてどうしていいかわからなくなっていた。

 

 

そもそも親の死の前に体験するかもしれない、親の介護、ということも、当時の私には考えられないし、そんなことになったら自分にできるのだろうか、と不安を覚えたこともある。

 

独身で自分が親になった経験のない私は、どんなに歳を重ねていっても、子供時代と変わらない感覚で親を見ていた。

 

親が死んでしまったら、自分ももう生きていたくない!とさえ思っていた私が、今はこうして親の死をジタバタすることもなく受け入れることができている。

 

過去の私が今の私を見たら、

「どんな魔法を使ったらそんなことができたの!?」

と、信じられないような目で見て言うだろう。

 

でもそれは、魔法でもなんでもなく、親の介護も、親の死も【そのとき】がくれば、受け入れることができていた。

 

もしかしたら、自分の人生にとって訪れる【そのとき】から発動される魔法のような力が、この世界には存在してるのかもしれないな、と最近よく思う。

 

特に私の両親からは、この世を去るときまでの充分な時間を与えてもらえた。そのぶん、介護の期間も長かったけれど、私は親の死を受け入れる覚悟をじっくりゆっくり固めることができたのです。

 

親が死んでしまったら、自分の生きる力も出せなくなると思っていたあの頃の私。

 

でも、月日は流れ、それから数々のことを経験した後の私は違った。

この夏、父親を看取り、ひとりになってしまった学生時代からの親友も、今は信じられない位のたくましさで自分の人生を歩み始めている。

彼女も私と同じ、家族と過ごした思い出をたくさん持ち、両親の介護を一生懸命やってきた人。

親の死をしっかり受け入れたことが、自分の残りの人生を力強く生き抜く力になっている実感が、今の私には確かにある。

 


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母の人生は本当に不幸だったのだろうか

2022年に96歳で亡くなった認知症の母について、思うことの記事です。

 

母が亡くなって1年以上過ぎました。

この1年間は、介護で大変だった頃の母を思い出すことが多かったのですが、次第に私は母の人生そのものについて考えるようにもなってきました。

 

母は生まれたときから最も身近な存在で 母のことはなんでも知っていたような気になっていたけれど。

母がまだ若かった頃の写真を見ると、そこには私の知らない母の世界が感じられ 私は改めて 母のことをもっと深く知りたくなりました。

見た目には母は明るく元気で 愛情深い人だったけれど。

 ネガティブな感情も強く そのような発言をする事も多かった。

本気なのか冗談半分なのかは結局わからなかったけれど、

母はよく自分のことを

世界一の不幸者

そんなことを口にしていました。

少なくとも幸せな人生だったな~とか 幸せだな~といった言葉は 母からは聞いたことがない。

 

私の知らない時代の母は戦争も体験しているし 時代的にも苦労は多かったようだけれど、 家庭をもってからの母は 特に大きな苦労をしたとは私には思えない。 

 

なにがそんなに不幸なの?

私も兄も母には何度も聞いたことがあります。

そのたびに母は

あなた達に言ってもわからないよ。

と必ず返されました。

 

答えられない大人の事情ってやつでもあるんだろーか🤔❔

 

結局それは語られることもなく、母は認知症になりこの世を去ってしまったけれど。

母のことをこんなにも愛している娘や息子である私達がいても、不幸なの?

過去に何度も聞いてみたときには、

あなた達がいてくれて、よかったよ。

といつも必ず言ってくれた母。

 

テレビ番組を見て大きな声で笑ったり、明るく陽気な母ではあったけれど。

母の中には、私には理解できない悲しみや不安が ずっとあったようにも感じます。

 

結局、母が生きている間には、母の悲しみに寄り添ってあげることはできなかった。

・・・と言うより、そもそも理解し寄り添おうと努めたこともなかった。

 

今ではもう遅いのかもしれないけれど。

母の悲しみを理解し、寄り添ってあげたいという気持ちが。

日に日に膨らんでいる。

 

母は人生の最後の最期に、なにを感じ なにを想ってこの世を去ったのだろう。


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歳を重ねるのも悪くないことを感じている

先日、同世代の友人からこんな言葉を聞きました。

 

「歳はとりたくないな~って思わない?」

 

友人は徐々に弱ってきている母親を見ての言葉だったようですが。

 

親の介護を散々経験した私としては、

 

「ほんと。そ~だよね~」って、同調してあげたい気もしたけれど。

 

結局私の口から出た言葉は、

 

「若い頃の方がそう思ってたかな~」だった。

 

還暦を過ぎ親の看取りを終えた今の私の本心は、歳を重ねることも悪くない!むしろ楽に生きられる、といったポジティブなもの。

 

でも、このように感じる人は、世の中たしかに少ないと思う。

 

今の私は変形性股関節症であるため、同世代に比べ足腰はかなり弱くなっているけれど、それは単に老化が原因によるものじゃない。

 

老化による肉体的な衰えであれば、ある程度自分の努力によってその進行は遅らせることができるし、筋力などは復活させることだって可能だ。

 

さらに、気力の部分に関してはあきらめなければかなりの高齢になっても十分に保っていけると思っている。

 

あきらめない。

 

 

その気持ちが大事だとつくづく思う。

 

変形性股関節症も、克服する。

 

その想い、私は死ぬまで手放さない。

 

そんなの絶対に無理だよ、と、この地球上すべての人がそう言っても、あきらめない。

 

この想いって、若いころに抱いていた自分本位で頑固な信念、とはだいぶ違う。

 

今は歳を重ねることによって心は強く、それでいて、しなやかになっていることをすごく感じるのです。

 

数々の人生経験が、心の年輪になって、心を太くし枝を大きく伸ばしてくれているようなイメージかなあ。

 

若い時期を上回るような肉体はもう復活できないだろうし、そんなことは望んではいないけれど、若いころを上回る心の強さは日に日に高めることは可能だと思うと、

 

歳を重ねることも悪くないなぁ~、と、私にはごくごく普通に思えるのです。

 

 


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自動ドアの幽霊現象

2022年6月。最愛の母が96歳で亡くなり一年が経ちます。

 

母は認知症を発症し徐々に体力も衰え、約9年ほどの在宅介護の後、介護施設に2年と7ヶ月いて最期を迎えました。

 

看取りに入ってからも、母は施設で穏やかに過ごしてくれました。

 

亡くなる当日もほんの少しだけゼリー食を口にし、その後ウトウトとまどろんでいるうちに、眠るように命の炎を燃やし尽くした母。

 

葬儀は家族葬でお願いしましたが、母の亡骸は一般葬用の安置室を使わせていただくことができました。

 

安置室まで運ばれる間、私達兄妹は一般葬儀場の広い正面玄関に面したロビーの椅子に座り、ほんの数分待たされたのです。

 

ロビーには私達兄妹以外誰もいません。

 

午後の4時前でしたがしーんと静まり返っていたその場で、母が亡くなった動揺を心に残しながらも、私は視線の先にある自動ドアの外側の景色をぼんやり眺めていました。

 

すると突然、自動ドアがすーっと開き、そして、すーっと閉まりました。

 

 

 

誰もいないのに。

 

ビックリして隣にいた兄の方を見ると

 

今のなにっ !?

 

と やはり驚いた様子。

 

葬儀場で幽霊現象!?

 

そんなふうに考えると怖くもなりますが、兄も私もそのときは、先に逝った父が見守りにきてくれたんだ!と直感したのです。

 

緊張した心の糸が緩むような、なにか温かい安心感を覚えたからです。

 

気になったのでそのような現象について調べてみたところ、科学的に考えるなら、センサーの汚れなどが原因で、人がいなくても自動ドアが勝手に開くようなことは起こるらしいのです。

 

たしかに、そういうことも考えられるなぁと思いつつも、あのタイミングでたまたまそんな珍しい現象が起こるなんて、単なる偶然として片付けるのは惜しい気がしてしまいます。

 

業界用語としても、このような現象を「幽霊現象」と呼ぶらしいですよ。

 

ま。幽霊が原因だと判断しているわけではないでしょうけど。。

 

でも、このときに限っては、私は信じたいと思った。

 

これからを安心して力強く生きるためにも信じたい。

 

きっと父がきてくれたんだ。

お母さんのことは助けて守ってあげるから。

心配しなくても、大丈夫だよ。

 

父からのそんな想いが届いたような気がするから。

 

 


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