手術しない変形性股関節症と親の介護ブログ

親の介護体験や 変形性股関節症 保存療法への取り組みに関する記録

親の死というリアルな記憶には消費期限がある

私はすでに両親を見送った身であるけれど。

だからこそなのかな。

今でも親の介護をしている人や、親を看取った人のことがとても気になります。

学生時代からの親友とは、ほぼ時期を同じくして両親を見送りました。

なので、親友の母親や父親が亡くなるたびに、自分の親の死をリアルに思い出し、まるで自分の親を失ったように悲しみに暮れました。

 

2024年今現在だと私は、父を亡くしてから4年と2ヶ月。母を亡くして1年と7ヶ月ほど経ちました。

その間には、親友のように近しい間柄の相手だけでなく、SNS上だけでのつながりのある人や、こっそり閲覧していただけのブロガーさんの中にも、親の介護をしている人はたくさんいて、悲報を知るたびにまるで自分のことのように悲しみが渦巻いていました。

閲覧していた介護ブログで、今年に入ってからまた認知症の母親を看取られた方がいました。

その方との交流はなかったものの、数年に渡って見ていたことと、予想外にあっけなく旅立たれてしまったので、とてもショックを受けました。

会ったこともなく、交流をしたこともない相手であったとしても、親しい人が亡くなったような、そんな悲しみが押し寄せてくるのです。

親を亡くしてから、私は自分の親以外の人の死に、何回涙したか数え切れないほどです。

たとえ人様の親であっても、親の死ということだけで、自分の親の死を強く思い出していたように感じます。

ただ、これはまだハッキリしたことはわからないけれど、今年に入ってから、私の中での親の死の記憶が、少し遠くに行ってしまったような気がするのです。

年明け前までは「母が亡くなったのは去年」だったのが、年が明けてしまうと、「母がなくなったのは一昨年」ということに。

時間の流れを考えれば、当たり前のことではあるけれど。

なぜ、親の死の記憶が遠くなってしまったように感じたかと言えば、今年に入ってから亡くなった方の死を、自分の親の死と重ねてみるようなことをしなくなっていたから。

 

厳密にいえば、まったくしなくなっていたわけではないけれど、その方の死そのものを悲しむ気持ちに集中していたことに、あとになってふと気づいたのです。

 

自分の親への想いが薄れたわけでは決してないのだけれど、親の死というリアルな記憶には、消費期限のようなものがあるのかもしれない。

 

親の死というリアルな記憶。

これは手放したくなくても、時の流れとともに確実に薄れてゆくものだと感じます。

 

親のことを思い出し懐かしさや感謝の想いで涙することは、これから先もずっとあると思う。

だけどこれから先にはもう、親の死を思い出し過呼吸になるくらい、悲しくて悲しくて、ただ悲しくて泣くようなことはないと思う。

 

でも。。それって、なんだか寂しいような気もするかな。

まだまだ悲しみの涙を流してもいいんだけどな。。

 


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