2012年 認知症になった母の介護 3年目の記録です。
母の実家は東京都と言えどかなり自然豊かな所で、うちから車で一時間以上行ったところにあります。
そこはほんとうにもう、ここは東京都なの!? っていう位のカントリーです(*'ω'*)
母が元気だった頃は、実家との行き来も頻繁にありましたが、実家に住んでいる叔父さん叔母さん(母の弟夫婦)も高齢になり、徐々にその回数も減っていきました。
それでも、叔父さんはこの頃はまだ、時折母の様子を見に来てくれました。
しばらく顔を合わせていなかったせいか、叔父さんは、母の様子がこれまでとは違うことに、ちょっと戸惑っているようでした。
この頃の母は、まだ会話もある程度は成立させることができ、足腰もわりとしっかりはしていたものの、超元気だった頃の母しか見たことがなかった叔父さんには、初めて見る母の変化に驚きを感じたのかもしれません。
叔父さんはこのとき、しばらく実家に来ることのなかった母に、遊びに来るよう積極的に誘ってくれました。
私はその時、今の母の状態で、人様の家に招かれて大丈夫だろうか?という心配がよぎりました。
トイレを借りた時、床とか汚しちゃったら困るな、とか、食べこぼしとかしそうだしな、とか。
でも、母が里帰りできるとすれば、これがラストチャンスかもしれない、とも思ったので、母を連れて遊びに行くことにしました。
当日は、叔父さんが車で迎えに来てくれて、母と仲の良かった義妹の叔母さんも加わって、途中にある観光資料館なども立ち寄ったり、母の幼なじみが入所しているという老人ホームにも立ち寄って、母に会わせてくれたのです。
母の幼なじみのおばあさんは、車椅子に乗せられ静かにやってきました。
母とは同級生とのことでしたが、母の方がずっと若く見えました。
そのときの母は、まだ支えがなくても歩くことができ、ある程度の会話もできました。
「〇〇ちゃん!わかる?私だよ。〇〇だよ!」
母が問いかけると、そのおばあさんは、ただニッコリと微笑んで、母のことを無言で見つめていました。
会話はできないようでした。母のことをわかってくれたのかどうかは不明ですが、ふたりを会わせてあげることができて良かった、と、今になっても改めて思います。
母の実家に招かれると、叔母さんが早朝から腕を振るって作ってくれた、大量の料理が用意されていました。
野菜の煮物とか、お赤飯とかおはぎとか、母が元気だった頃にはよく作ってくれた料理が、たくさん作ってありました。
母は和食が得意でした。正直言うと、私は子供の頃からずっと、和食はあまり好きではありませんでした。それを知っている母は、私のために別のメニューも用意してくれるようなまめな人でした。
でも、母が料理をしなくなってから、母の和食の味が恋しくて恋しくて、仕方ありません。実家の叔母さんの味付けは、母の味に似ていました。
久々に口にした、母の和食に近い味に、胸がいっぱいになりました。
行く前から心配していた、母のトイレの失敗や食べこぼしもさほどなく、無事に帰ってくることができました。
母にとっては、人生最後の里帰りになると思ったので、この日の記念になればと思い、みんなで写した写真をたくさん撮って、後日プリントアウトして送りました。
届くとすぐに電話があり、叔父さんも叔母さん達も、とても喜んでくれました。
「歳を取ってくると、なかなか会えなくなってくるし、こうしてみんなで写真なんか写すこともないから、なんだか涙が出るほど嬉しいよ」
と、一緒に行った母の義妹である叔母さんは、やけに大袈裟に喜んでくれました。
写真くらいで、こんなに喜んでもらえて嬉しいなあ、と思った覚えがあります。
このとき喜んでくれた叔母さんは、約3年後の2015年4月、心臓が悪かったために亡くなってしまいました。