手術しない変形性股関節症と親の介護ブログ

親の介護体験や 変形性股関節症 保存療法への取り組みに関する記録

家族揃って過ごせた最後の日

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

 

今回はテーマ投稿に合わせた内容で書かせていただきます。

 

2019年9月26日木曜日 

 

その日は生まれてからずっと一緒に暮らしてきた、両親と兄そして私という、家族4人での暮らしが最後になる日でした。

 

認知症で要介護4となった母は、翌日から介護施設の入所が決まっていました。

 

父は95歳、母は93歳、兄は63歳、私は57歳でした。

 

10年近く、兄と力を合わせ在宅での介護を頑張りましたが、とっくに限界を超えていました。

 

入所までにかなり待たされ、やっと順番が回ってきたのですが、ほっとする気持ちなどまったくなく、ギリギリまで母を手放したくない想いに駆られていました。

 

母の入所が決まってから、猛スピードで老衰へと向かってしまった父は、母が家を去ってから10日後に救急搬送され入院、そのたった1か月半後には亡くなってしまいました。

 

母がいなくなってからの父の衰弱ぶりは驚くほどで、結局、母とほとんど時期を同じくして、家から去ってしまったことになります。

 

 

家族4人で暮らせた最後の日。

 

父は、2回目のデイサービスに行きました。

 

本来なら、家にいて母と一緒にいられる時間を持とうかと思いましたが、デイサービスに行けばお風呂にも入れてもらえるし、家にいるより手厚く面倒も見てもらえると思い、行ってもらいました。

 

この年の夏頃から父は体調が優れず、9月からデイサービスを利用することにしました。

 

でも、結局、父がデイサービスに通えたのも、この日が最後になりました。

 

父が通えたのは たった二回です。

 

母は5年以上も通ったところです。

 

母にとってはデイサービス最後の日に、父も初めて一緒に行ったのです。

 

 

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たった一回でも、ふたり揃って通うことができ、記念に写真も撮ってもらえて、本当に絶妙で奇跡的なタイミングでした。

 

 

 

話を戻して、家族で過ごせた最後の日。

 

私と兄はなるべく母の傍にいるようにしました。

 

特別なことはなにもしなくて、諸々の家事や母のトイレ介助等の介護、施設入所に必要な持ち物を揃えたりと、いつもの忙しい日常がそこにはありました。

 

夕方、5時過ぎには、かなり疲れた様子で父もデイサービスから帰ってきました。

 

家族揃って最後の食事となる夕食には、ネットスーパーで届けてもらったお寿司やケーキなどを出しました。

 

介護がハードになってからは、ネットスーパーは頻繁に利用していました。

 

出来合いの総菜やお弁当という食卓が、いつもの日常になっていました。

 

 

認知症の母は、自分が置かれている状況はわからないまま、食欲はあったのでよく食べてくれました。

 

父は、言葉にはしなかったものの、母がいなくなる悲しみでいっぱいだったのかもしれません。

 

体調の悪さもあって、握り寿司を3つだけ、その日はやっと口に運ぶのが精一杯でした。

 

私はといえば、当時の日記を見ると、「忙しさと疲れとで、母がいなくなってしまう実感は全くない」と記していました。

 

この頃は、常に戦場にいるかのような気の抜けない毎日がいつもの日常であり、母と過ごせる残り少ない時間をじっくり大事に味わう、といった心の余裕は、ほとんどありませんでした。

 

それでも、悲しみや寂しさや焦りのような、言いようのない感情が、胸の奥深くから吐き気を伴うほどに、強く激しく渦巻いていた感覚は思い出せます。

 

 

子供の頃からずっと実家で暮らしてきた兄と私には、家族4人での暮らしが当たり前になっていました。

 

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何気ないいつもの日常には、父も母も必ずいました。

 

その時代時代で、いつもの日常風景やそれぞれの状況は多少変化しているものの、そこには必ず、父も母もいました。

 

両親ともに介護がハードになった後半2年間くらいの間は、常に気が抜けない戦場のような生活が、いつのまにか当たり前の日常であり、何気ない日常になっていました。

 

 

 

あの頃の何気ない日常は、今はもうありません。

 

何気ない日常なんて、取り立ててなんの思い入れもなく、ずっと続くもののような気がしていました。

 

だけど、いつの間にか消えてしまったあの頃の何気ない日常に、今はものすごい価値を付け、一日一日、一瞬一瞬が特別なものだったと思い知りました。

 

 

それは、今日、今この一瞬もいつかはそんな価値あるときになるに違いないものの、今日もまた私は、当たり前の日常として、流されるようにときを過ごしています。

 

もしも、人生があと一日しか残されてなければ、最後の一日をどう過ごしたいか?

 

今の私なら、特別なことなどなにもせず、いつもの日常、当たり前の日常を、心ゆくまでじっくりゆっくり味わって、人生を閉じられればいいかなと思います。

 

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介護に疲れ自分の脚のケアができない 2014年前半

変形性股関節症発症から5年目(2014年前半)の記録

 この年のお正月頃の日記を見ると、脚の痛みはわりと安定している、と書かれてあったものの、1/10日頃にはまた 自転車に乗るために脚が上がらなくなったりしています。

 

わりと調子が良いときもあれば、悪いときもあるといった繰り返しです。

電車と歩きを使っての移動も、1時間以内の距離が限界となってきています。

 

ある程度歩いた日の翌日は、全身の筋肉痛に苦しめられました。

発症した最初の数年は、変形のある左股関節周辺の筋肉が痛いだけだったのに、右脚や腕なども含む全身の筋肉痛がひどく出るようになってきました。

 

この頃には、変形性股関節症の保存療法についての本や、雑誌などを、図書館も利用したくさん読み漁りました。

 

テニスボールを使った矯正法もわりと効いたので、積極的に取り入れ日課にもしていました。テニスボールを2個つなげたものを内ももの間に挟み、足首とひざをひもで縛って固定する、といったようなものだったと思います。

 

股関節痛に効くというストレッチや矯正法で、そのときの自分に合っていそうなものもいくつか見つかり、少しだけ希望の光も見出せたような気もしました。

 

この頃は今よりも筋力の衰えも脚長差も少なかったので、やればそれなりに効果は得られました。

 

しかし、母の認知症が進行し日々の介護に疲れ果て、自分の脚のケアを毎日やり続ける体力気力は 徐々に衰退していきました。

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では、介護をしなくてもよくなった今、股関節のためのセルフケアを十分にできているか?と聞かれれば、そんなにできてはいないのです。

 

本来であれば、今はとにかく自分の脚の状態を良くしていくことを最優先にしていくべきだと頭では思っていても、日々の生活に追われ、なかなか思うようにいかないのが現状です。

 

今は股関節そのものの痛みレベルとしては、この頃よりはずっと安定している感じですが、全身の筋力が落ちてきているのか、身体全体が凝り固まったように痛いことが多く、以前のようにスピーディーに物事がこなせなくなっています。

 

特に、梅雨の時期は一年で一番それを感じます。

 

湿度の高い時期に低気圧が身体に及ぼす影響が、私にとっては一番のダメージです。

 

こんなに調子が悪いときにでも、セルフマッサージや瞑想などによって状態が良くなることは体験していますが、今はそれを実行する気力も不足しています。

 

そんなとき、できない自分を責めてしまいがちでしたが、できないときはできないんだ、と開き直るようにしています。

 

できない自分を責めることで、さらに具合は悪くなることはわかっていますから。

 

とりあえず、できるようになりたいと思い続けてさえいれば、そのうちできるようになってくるはず、というような根拠のない確信はなぜかあるのが救いです(;^_^A

 

 

 


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昼夜逆転で不穏になる母 介護4年目

認知症になった母の介護4年目 2013年7月~10月の記録です。

 

この年の7月 母は朝起きて着替える際に、パジャマを着たままその上に部屋着を着ようとするようになりました。着替えの仕方が、自分ひとりではわからなくなってきたようです。

 

暑い日に窓を開けておくと、すぐに窓を閉めようとしました。

逆に、エアコンを入れて窓を閉めると、今度は開けようとするようにもなりました。

温度に対する感覚も鈍くなってきたようです。

 

 

相変わらずお風呂に入ってもらうことには 苦戦し続けました。

服の脱ぎ着がまともにできなくなっているにも関わらず、私が手出し口出しするのを嫌がりました。

私が事前に替えの下着やタオルなどを用意し、脱衣所に揃えて置いておくと、母はそれをさっさとしまっていました。

 

しまわない日があるかと思えば、今度は用意した下着はそのままにして、お風呂から出ても今まで着ていた下着を身に着けていました。

 

10月には家の中で転んで右目の横を少し切り、しばらく内出血状態が残りました。

 

この頃から、昼夜の区別がつかなくなりはじめ、昼と夜を取り違えた行動や発言をするようになります。

 

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10月7日 母は深夜零時過ぎに突如起きだし、布団をたたみ始めました。

 

こんな行動に出たのは初めてでした。

 

「もう夜なんだから寝て!」

 

私が言っても母は 聞く耳を持たず。

 

そのうちに、キッチンで食べ物を探したり、あちこちのタンスの引き出しを開けたり閉めたりし始めました。

 

無理やり連れ戻して寝かせようとすると、キーッ!となって興奮しました。

 

結局、やりたいようにやらせておくしかなかったのです。

 

午前2時半近くになるとようやく疲れて眠くなったのか、やっと寝る気になったようです。

 

 

この五日後には、早朝に突然「おばあさんがいない!」と言って騒ぎだしました。

 

おばあさんというのは、母親にとってのお母さんのことでしょう。

 

そのうちに、母の弟の名前も呼んで、「どこへ行ったの?」と私に聞きます。

 

子供の頃の夢でも見て、夢と現実の区別つかなくなったようです。

 

こんなことも初めてでしたが、その時はわりとすぐに落ち着き、再び寝てくれました。

 

 

夜中や明け方に不穏になり振り回されたのは、数回程度でしたが、夜中に目を覚まし「もう起きるんでしょ?」と言ってきたり、「ごはん作らなきゃ」みたいなことは、たびたび言うようになってきました。

 

 

 

 

 


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生まれて初めて杖を使った日 2013年後半

変形性股関節症 発症から4年目(2013年後半)の記録

 

この年の7月 私は生まれて初めて、杖を使って外出してみることにしました。

 

その日は、最寄駅から電車で30分位の所で、高校時代からの親友と会うことになっていたのです。

 

脚の痛みがひどく出ていた時期だったので、杖があるとかなり楽でした。

ただ、高齢者ではないのに杖をついて外出することに、多少抵抗感はありました。

周囲の人から今の私は、どんな風に見られるのだろう?という、杖を使うことに対する羞恥心ようなものも多少感じていました。

 

でも、杖を持って思い切って外に踏み出してしまえば、抵抗感なく当たり前のように使えました。

 

この日、私が杖をついて歩くのを初めて見た旧友は、一瞬驚いていたようでしたが、私の脚が悪くなってきたことはよく知っている人なので、いつも通りに接してくれました。

 

杖に関しては、今現在は使っていませんが、この後6年位は使い続けました。

今は、杖を使わずに歩いた方が楽です。

股関節の状態はこの時期より、今はわりと安定しているように感じられます。

 

この年、私はやはり生まれて初めて電車で席を譲られました。

私の人生、こんなに早い時期に席を譲られることになるなんて、思ってもみなかったなぁ~(。-_-。) と、思いました。

 

高齢者でもないのに、席を譲ってもらうのはなんとなく悪い気がして、優先席が空いていたらなるべく優先席に向かい、どこにも空きがなさそうであれば、できる限り座っている人の前には立たず、ドアの前あたりに立つようにしてしまいます。

 

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それでもわざわざ遠くから、どうぞー!と呼びに来て、席を譲ってくれる方が世の中にはたくさんいることを知り、

 

人の情けが身に染みるとはこのことかー(/ω\)。。と、何度も思ったものでした。

 

この年は、痛みレベルとしては最強の10を何度も経験していました。

 

ある程度歩いて疲れた日はもちろん、季節的には湿度が高い梅雨時から夏の終わり頃までが一番辛かったようです。

 

しゃがみ込む動作は痛いのはもちろん、股関節にも一番ダメージを与えると思ったので、その動作は避けるようにしていたのですが、親の介護が進行するにつれ、しゃがみ込む動作をしないわけにはいかなくなりました。

 

でも意外なことに、痛みをこらえ、しゃがむ動作を再開してから、鼠径部辺りがブロックされたような変なツッパリ感がなくなり、股関節の痛みも軽減しました。

 

さらに言えば、変形性股関節症にはよくないとされていた、正座もできるかぎりしないようにしていたのですが。あえて正座も少し取り入れてみたところ、鼠径部周辺のこわばりがなくなり、股関節の痛みも軽減しました。

 

ただ、これは全ての股関節症の人に当てはまることではないと思います。

本来なら、よくないとされていることですから。

 

それでもなにかの偶然で、その時の自分には合っていた!ということが、よくよく調べていくと私にはたくさんあったようです。 

 

 

 

 

 


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歯が抜けたのをきっかけに気力も低下した母 介護4年目

認知症になった母の介護4年め 2013年 前半の記録です。

 

この年から、母の認知症は大きく進行した感じがします。

 

5月半ば頃から、朝起きる時間になっても、なかなか起きなくなりました。

 

それまでの母は、認知症であったにも関わらず、朝はダラダラすることなくシャキッと起きる母でした。

 

 

きっかけは、一本だけ残っていた自分の歯が取れたことにあるようです。

 

母はほぼ総入れ歯でしたが、一本だけ自分の歯が残っていて、それは活せるように入れ歯も作られていました。

今までは自分の歯があることで安定していた入れ歯でしたが、歯を失ったことで安定感がなくなり、グラグラして食べにくいらしく、母の食欲が一気に落ち、まともに食事が摂れなくなりました。

 

体力が落ちてしまったせいか、そのうちに、腰が痛いと言い始め、放っておけばこのまま寝たきりになりそうな感じだったので、毎朝かなり時間をかけて説得し、なんとか起きてもらうように頑張りました。

 

イヤイヤながらも、なんとか起こしてしまえば、その後はそんなに腰を痛がることもなかったのです。

 

とにかく歯科に連れていきたいと思っていたのですが、調子が悪いと言って、全く行く気を起こしてはくれません。

 

次第にお風呂も嫌がるようになってしまい、なんとか長時間かけて入るよう説得し、入ってもらうように促しました。

 

この頃はまだ、起こす時もお風呂に入る時も、介助はなくても、母はなんとか自分でできていました。

 

お風呂に入る時に準備する下着なども、長時間かけて自分で選んだものでなければ、納得しませんでした。

 

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一緒に脱衣所に入って手伝おうとすると、強く拒絶されました。

 

いっそのこと、完全にこちらに委ねてくれたら、もっとスムーズにことは進んだはずですが、まだこの頃は母の意思というものがしっかりあったので、必要以上に手出しすることはできなかったのです。

 

そのため、お風呂に入ってもらうための説得の時間や、行動を促すようなサポートの時間を含め、3時間位かかることもざらにありました。

 

さらに、それだけ時間かけても、結局、腰が痛いとか言い出し、入ってもらえないことも多発しました。

 

この年は、歯が一本抜けて調子が出なくなったのをきっかけに、ズルズルといろいろなことができなくなったように見えました。

 

説得して、ちょっとやる気を出しさえすれば、それなりに動くこともできたのです。

 

要は気力の問題だな、と思えることは多々ありましたが、認知症である高齢の親に、やる気を出させるなんてことはできないよな~(-_-;)。。と、いつも私は悶々としていました。

 

それまでの母には、ある程度残されていた気力というものが、ほんの些細な身体の不具合をきっかけに、どんどん失われていったように感じられました。 

 

 

 


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激しい痛みに襲われる 股関節症4年目

股関節症4年目 2013年前半の記録です。 

 

この年の5月頃から、激痛といえる位の激しい痛みを感じるようになってきました。

股関節のかみ合わせの悪さによる、グキッとした激しい痛みが、脚を踏み出すたびにグキグキ襲いかかります。

 

その痛みは、目から火花が散るような痛みなので、痛い方の脚を踏み出す瞬間は、まさに地雷を踏むくらいの恐怖で、怖くて最初の一歩がなかなか踏み出せません。

 

横になっても痛くて、寝返りを打つのも必死で、十分に睡眠がとれない日も増えました。椅子に座っているのが、一番ましな体勢でした。

 

それまでにも感じていた痛みが、さらにグレードアップした感じです。

この頃の痛みこそ、痛みレベル最強の10を感じていました。

 

4月の段階では、一万歩以上歩いたという記録もあり、春頃までは痛みレベル3程度で、調子がいい時もあったのです。

 


この年はまだ、整骨院にも通っていました。

 

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整骨院で施術してもらうと、その直後はほとんど痛みを感じないレベルになっているのに、その帰りに、買い物をして店内を少し歩き始めると、また股関節が不安定になって、痛みがすぐに出始めました。

 

お風呂に入るのも、必死でした。

立ったままシャワーだけで済ませることも多くなりましたが、それでも多少腰を曲げたりする姿勢をする必要もあり、それが痛く、立っていることもかなり辛いものでした。

 

介護用の踏み台を使い、なんとかバスタブに浸かって身体を温めると、硬直していた筋肉が緩み、痛みは緩和されました。でも、しばらくするとまた、激しい痛みが復活します。

 

そろそろ杖が必要なのかな、と考えだした頃でした。

 

ここでちょっと今までの記録を振り返ってみると、この年から急激に悪化したのは何が原因なのかな?と私なりに今でも分析しています。

 

そこで考えられることは、親の介護が大変になってきたことにより、身体的、精神的な負担が増し、変形性股関節症の進行が加速したのではないかなと。

 

この時の、股関節がガクガクするような不安定で強烈な痛みは、その後整骨院に通うのをやめてからは落ち着いてきました。

 

とはいえ、整骨院の治療が悪かったというわけではなく、整骨院では一時的に硬直した筋肉を緩ませてくれ、一時的に歪みを矯正してくれるまでが精一杯だったと思うのです。

 

整骨院でやってもらえたのは、あくまでも一時的な緩和のみでした。

 

そこから、できる範囲で自ら、衰えた筋力を復活させていくことができたら、あんなにひどい痛みに襲われることはなかったように思うのです。

 

でもあの時の私は、自分の力でなにをどうしていいかわかりませんでした。

 

親の介護も日に日に大変になり、自分の身体をケアする時間を取ろうとする、心の余裕は失っていました。

 

今現在は、整骨院には通っていないし、思うようなケアもトレーニングもまだできてはいませんが、激痛に襲われることは、ほぼ起こりません。

 

それは、股関節周りの筋肉を一気にほぐすようなことは、避けていますし、自分にとっての身体の使い方が、ある程度わかってきたからだと思います。

 

それでも、季節の変わり目などで急に気温が上がり、硬直していた筋肉がゆるんだ感じになった日には、関節がグラグラ不安定になり変な痛みが出ることもあります。

 

たぶん、長年に渡って硬直した筋肉は時間をかけて徐々にゆるませ、そのゆるみ具合に見合った筋力を少しずつ付けていくことが、今の自分にとっては、安定した股関節に向かう道ではないかと考えています。

 

試したいことはいろいろ浮かんでいるので、じっくりゆっくり取り組んでいこうと思っています。

 

 


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人生最後の里帰り 母の介護3年目

2012年 認知症になった母の介護 3年目の記録です。

母の実家は東京都と言えどかなり自然豊かな所で、うちから車で一時間以上行ったところにあります。

そこはほんとうにもう、ここは東京都なの!? っていう位のカントリーです(*'ω'*)

 

母が元気だった頃は、実家との行き来も頻繁にありましたが、実家に住んでいる叔父さん叔母さん(母の弟夫婦)も高齢になり、徐々にその回数も減っていきました。

 

それでも、叔父さんはこの頃はまだ、時折母の様子を見に来てくれました。

しばらく顔を合わせていなかったせいか、叔父さんは、母の様子がこれまでとは違うことに、ちょっと戸惑っているようでした。

 

この頃の母は、まだ会話もある程度は成立させることができ、足腰もわりとしっかりはしていたものの、超元気だった頃の母しか見たことがなかった叔父さんには、初めて見る母の変化に驚きを感じたのかもしれません。

 

叔父さんはこのとき、しばらく実家に来ることのなかった母に、遊びに来るよう積極的に誘ってくれました。

 

私はその時、今の母の状態で、人様の家に招かれて大丈夫だろうか?という心配がよぎりました。

 

トイレを借りた時、床とか汚しちゃったら困るな、とか、食べこぼしとかしそうだしな、とか。

 

でも、母が里帰りできるとすれば、これがラストチャンスかもしれない、とも思ったので、母を連れて遊びに行くことにしました。

 

当日は、叔父さんが車で迎えに来てくれて、母と仲の良かった義妹の叔母さんも加わって、途中にある観光資料館なども立ち寄ったり、母の幼なじみが入所しているという老人ホームにも立ち寄って、母に会わせてくれたのです。

 

母の幼なじみのおばあさんは、車椅子に乗せられ静かにやってきました。

母とは同級生とのことでしたが、母の方がずっと若く見えました。

 

そのときの母は、まだ支えがなくても歩くことができ、ある程度の会話もできました。

 

「〇〇ちゃん!わかる?私だよ。〇〇だよ!」

 

母が問いかけると、そのおばあさんは、ただニッコリと微笑んで、母のことを無言で見つめていました。

 

会話はできないようでした。母のことをわかってくれたのかどうかは不明ですが、ふたりを会わせてあげることができて良かった、と、今になっても改めて思います。

 

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母の実家に招かれると、叔母さんが早朝から腕を振るって作ってくれた、大量の料理が用意されていました。

 

野菜の煮物とか、お赤飯とかおはぎとか、母が元気だった頃にはよく作ってくれた料理が、たくさん作ってありました。

 

母は和食が得意でした。正直言うと、私は子供の頃からずっと、和食はあまり好きではありませんでした。それを知っている母は、私のために別のメニューも用意してくれるようなまめな人でした。

 

でも、母が料理をしなくなってから、母の和食の味が恋しくて恋しくて、仕方ありません。実家の叔母さんの味付けは、母の味に似ていました。

 

久々に口にした、母の和食に近い味に、胸がいっぱいになりました。

 

行く前から心配していた、母のトイレの失敗や食べこぼしもさほどなく、無事に帰ってくることができました。

 

母にとっては、人生最後の里帰りになると思ったので、この日の記念になればと思い、みんなで写した写真をたくさん撮って、後日プリントアウトして送りました。

 

届くとすぐに電話があり、叔父さんも叔母さん達も、とても喜んでくれました。

 

「歳を取ってくると、なかなか会えなくなってくるし、こうしてみんなで写真なんか写すこともないから、なんだか涙が出るほど嬉しいよ」

 

と、一緒に行った母の義妹である叔母さんは、やけに大袈裟に喜んでくれました。

 

写真くらいで、こんなに喜んでもらえて嬉しいなあ、と思った覚えがあります。

 

このとき喜んでくれた叔母さんは、約3年後の2015年4月、心臓が悪かったために亡くなってしまいました。

 


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